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目白バースハウス(目白助産所)

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【わややさん(28才)の場合】 第1子 水中出産
 

【わややさん(28才)の場合】 第1子 水中出産
なぜ、助産院で?!
 私は3年前、水中出産で長女、涼香(すずか)を出産しました。場所は、世田谷バースハウスという自宅近くの助産院でした。産院は違いますが、涼香をとってくれたのは、実は星野先生です。 私は当初、友人の産婦人科医に診てもらってたのですが、友人は既に転勤が決まっているから出産は担当できない、との事で、7ヶ月過ぎになって、ようやく私は「産む場所」を探し始めました。
 
 私はコンピュータ業界で技術職をしており仕事が慢性的に忙しかったので、土曜に診察が受けられて、バースクラス(いわゆる母親学級)も、土日に開かれるところが第一条件でした。またその頃、周りの友人、知人はみ~んな口を揃えて(心配して)、酒飲むな、PC運ぶな、仕事をやめれば、電磁波が…とあれこれいうので、私はうんざりしていました。だって、猫だって勝手に押し入れの中にもぐって自力で子を産むんだから、私にだって産めないわけがないっ!!体に必要なものはきっと体が欲しがるだろうから、自然と食べるだろう、体に悪いものならば、体は自然と受け付けなくなる筈だ…、と妊娠中は、今思えば妙に「わたしの中の野生」にこだわっていました。
 
 体質でしょうか、たまたま私はつわりも殆ど無く(気がつかず?!)、太りもせず(出産直前+4kg、産直後±0kg)、貧血もならずという、何だか変な妊婦でした。お腹もめだたなくて、ちょうど産休に入る10ヶ月まで、通勤電車で立っていても、妊婦と気付く人はいない様でした。今思えば、妊娠中は夫が特別に気を使ってくれていました。朝食(うちでは今でも夫が作るのですが、)メニューにししゃもを頻繁に出してくれたり、職場のストレスで精神的にかなり参ってしまった時、凝った腰や首、肩や足を毎日マッサージしてくれたり・・・。
 
 当時、私は随分と心や体にムチを打ち、働いていました。なぜって、子を産み、働きつづける事が私の夢だったから。結婚、妊娠、出産でのリタイヤは絶対避けたかったから。毎日、失敗してはいけないと、緊張に次ぐ緊張で体は冷え、首はガチガチに凝って固まり、リラックスとは程遠い生活を送っていました。リラックスにはすごく興味があり、本などから得たリラクゼーションの知識はありましたが、もし、体の声に従って、自分の仕事を調整しようものなら、だから女は…と足もとをすくわれ、仕事の道が閉ざされそうな予感がして、当時の私には聞きたくとも体の声を聞いてやることはできませんでした。
 
 痛いお産がイヤだったので、最初は自由が丘にある、無痛分娩の個人クリニックをあたったのですが、電話応対の感じが大変悪く、最後には「一杯ですから。」と断られてしまい、他に良さそうなところは…と、区役所でもらった一覧表を見つつ、「p-and」という雑誌もめくりつつ、電話で探し当てたのが世田谷バースハウスでした。電話の感じもとても良く(院長自ら対応していました)、「一度見にいらっしゃい。」との事。見学に行って院長の山田さんと話をした時も、じっくりと話をして下さり、「うちのお産は、“自分で産む”が基本よ。」との事で、お産に対しての私のイメージとここのお産のしかたが近い気がして、私はここで子を産もう、と決心しました。
 
なぜ、家族の参加、水中出産を選んだの?!
 バースハウスでお産をする人は、バースクラスという出産準備セミナーを受講します。星野さんにはそこで初めてお会いしました。
 
 第1回目は、競馬の日本ダービーの日でした(実は行きたくてチケット まで買っていた(;_;))。嘱託医、調理師、ヨガインストラクタ、ラ・レーチェ・リーグのリーダー、見学の看護婦、院長をはじめとする助産婦数名…たくさんのスタッフの、様々な分野でのお話と実習があり、よくある妊娠本に書いてある事以外の、とても大切な話が聞けました。
 
 このバースクラスの数週間に覚えた、体と意識の緩め方、リラクゼーション、アロマテラピーについては、今も自分の生活に役立てています。お国が主催の母親学級は、そもそも開催は平日で論外だったし、前々からどんなものか、行った人の話である程度は聞いていたので、私には必要無いかなと思い、行かなかったのですが、このバースクラスは出席して大正解でした。講義内容もさながら、数週の間、毎週末、10人くらいの同じように出産を控えた人たちと、お産に対して似通った考えを持っている人たちと顔を合わせ、少しづつ打ち解けていき、知り合いになれたことで、将来に不安を感じたり、産み方にこだわってたのは自分だけじゃなかったんだなぁ、と安心し、嬉しかったです。
 
 何回目かのバースクラスの講義で、おなかの赤ちゃんに意識で話し掛けてみましょう…という実習がありました。でも私は、どうしても気持ちが乗りませんでした。私も夫も、講義中によその夫婦の子供がそばに寄ってくると、「うるさいなー。」と感じていましたし、私達のベビーが産まれるんだ、という実感はこの時点(妊娠8ヶ月)では全く湧いてきませんでした。ひょっとして、私達はマトモな親になれないんじゃないだろうか…と不安になりましたが、「あぁ、大丈夫、そういう人も結構いるのよー。」と世田谷バースハウスの山田先生の、の~んびりした一言はとても説得力があり、安心できました。
 
 私は当初は、水中で出産をしようとは特に決めていませんでした。痛みをできるだけ軽くできればそれで良かったので、特にプールを使うかどうかは決めていませんでした。ただ、痛みが和らぐという話は経験者の話で聞いていたので、プールの用意はしてもらって、使う、使わないはその時に決めればいいや、と思い、支度だけはお願いしていました。また、家族(夫)の参加(当時は「立会い」だと思っていた)も、その時までに参加する本人に決めてもらおう、と思っていました。バースクラスの段階では、夫は「立会う」のを少し怖がっていた様です(^^;)。
 
 バースハウスでは、妊娠中も基本的には薬を使わない方針でしたが、私はよく仕事中にお腹が張って苦しかったので、7か月まで診察してくれていた医師が処方してくれたウテメリンというお腹の張り止めを苦しい時には 飲んでいました。
 
私のお産
 今思うと、それは、私の心と体が常に緊張し続けてていたからなのだなぁ…と思います。産休に入り、薬も止めてしばらくのんびりとした生活を楽しみ、私のお産は予定日より1週間ほど早く始まりました。
 
 お産の直前の朝方、とても不思議な夢を見ました。手が動かない老人の手を、医師がやさしく何度も何度もさする。「動かしてごらん」と医師がいうと、ほんの少しだけ、老人の指先が動く。やさしく長く、更に医師は老人の手をさすり続け、すると老人の手は少しずつ動くようになる…。「あぁ、何事も、ゆっくり、ゆっくり、続ければいいんだな。」と私は夢の中で気がつき………そこで、目が覚めたんです。お手洗いに行くと、下着に鮮血がついていて、あぁ、お産が始まるな、と割と落ち着いて思いました。
 
 お産にかかった時間は、陣痛が本気で激しく痛くなってからは、大体7時間か8時間くらいだったと思います。一応、陣痛が10分おきになった夕方、バースハウスに行ったのですが、ついてしばらくは、夕食をとったり、私の母や夫とヘラヘラしゃべったり、夫の夕食にと、母が買ってきたお好み焼きを一緒につまんだりして、余裕で遊んでいました。痛みは8分おき位でしたが、まだ痛い時間は短時間でした。院長の山田先生は、ちょうど出張中でしたが、既に顔見知りの星野先生やスタッフの方に囲まれ、不安はあまりありませんでした。
 
 でもその後、深夜を過ぎ、1時頃からは陣痛が急に強くなりだして、私はひたすら苦しくて、うーん、ぅあぁーん、とサカリのついたねこのように唸って痛みに耐えました。バースハウスでは、出産時の投薬はせず、会陰の切開もありません。夫は一生懸命フォローして背中をなでたり、私を抱えて揺らしてくれたりしてくれましたが、私の母は……実の娘がこんなに苦しんでるのに、なんと大イビキでゴーゴー寝ていたので、私は思わず蹴ってやりたい気分になりました。トイレに立って座る瞬間にも、身をよじりたくなるような激痛、更に用を足して立ち上がる時にまた激痛、それも長い時間痛みが続き…もう、本当に死ぬ思いでした。でもその時、私は足や体に力を入れてしまった瞬間に、陣痛もつられて起こる…らしい事を体得しました。
 
 散々苦しんだ挙句、明け方6時ごろ、出産用のプールの支度ができ、もう、なんでもいいから痛みから逃れたい私は、「支度ができたわよ。」といわれるやいなや、プールに飛び込みました。体温と同じくらいの温度のプールに入った瞬間、あの強烈な激痛がウソのように引き…私はプールの中でユラユラと漂いながら、夫に後ろから腕をかかえてもらって30位、クラゲの様に寝ていました。ラベンダーの精油がたらされ、薄暗く暖かな水の中は、本当にリラックスできるものなんですね・・・。
 
 私はなぜか当直の助産婦さんに触れられるのを強く拒みました。東京の真夏の朝、クーラーもかけていない部屋にいる助産婦さんの手が冷たい筈はないのですが、なぜか冷たく感じ、その冷たさは陣痛を誘いました。その助産婦さんが内診をしようとして、お腹に触れただけで、「さわらないでっ!!」と叫んだ(怒鳴った?!)のを覚えています。(ごめんなさい、痛くって必死だったんですぅ…。) 「まだいきんではダメ。」と言われていたので、私はプールの中で足をバタバタ動かし、大暴れしながら内診を拒み、陣痛に耐えました。どうやらその頃、星野さんがバイクを飛ばして駆け付けてくれたようでした。「2時間くらい経ったら、一度プールから上がらないと…」の声に、まずい…ここから出たら、またあの痛みが襲ってくる…。と戦慄し、部屋の時計の進みがとても気になりました。触られるとあの強い痛みが襲って来るのでイヤだったのですが、仕方ない、また(今度は星野さんの)内診です。でも、手が冷たくない?平気だ…(ホッ)。
 
 その後、強い陣痛が何度か来て(今いきんだら切れるよ、と星野さんに脅され(^^;))我慢してたんですが、もう我慢できないくらい激しい陣痛(既に痛みという概念は超えていました)に、「うわぁぁぁっぁあー」と何度も叫びます。陣痛の合間に、さっきまで診ていてくれた助産婦さんが、用意して下さったジュースやお茶を飲みます。お茶も蒸し暑い部屋(だったらしい)なのに、体温と同じ位のぬるいものが欲しかった。冷たいとそれが刺激になって、陣痛が来るのです。「冷たい!もっとぬるいのがいい!」と言って、ぬるいお茶を持ってきてもらい、飲ませてもらって・・・今思えば、本当にとんでもないワガママな妊婦でしたぁ。あぁ、ホントにごめんなさい…。
 
 あまりの苦しさに「うわーっ、もう、やめるぅ~~っ!!」と大声で叫んだら、「ふぅーん、産まなきゃ、終わんないんじゃないのぉ~。」と、星野先生の呑気な声。(叫びながら、我ながらバカなことを言ってるなぁ…とは思ってたけど)あーぁ、漫才みたいなやりとりになってしまった…。手が痺れてきて、生まれて初めて過呼吸を体験する。「息を吐くことに集中して」と星野さん。その場で教わって、なんとか呼吸法で乗り切りました。
 
 「じゃぁ、いきんでみてごらんー。」の星野さんの一言で(その時はまるで星野さんが天使に見えました、ハイ。)1回、2回、3回と、陣痛に合わせていきむうちに少しずつ、にゅぅーっと出たり、引っ込んだりする変な色の丸いボールのようなものを私は不思議な気持ちで見ました。何回めかでその丸いボール上の物体(赤ちゃんの頭)が引っ込まなくなり、その次の次くらいで、赤ちゃんの頭がつるんと出ました。「あ、頭出たねぇ、もういきんじゃダメよ、切れるの嫌でしょー。はっはっ…と息してのがしてねー。」言われるがままに呼吸をし、次の陣痛(というか、いきみ)の波で娘はしゅるん、という感じで私から出ていきました。
 
 私はすっかり力尽きて、自分の赤ちゃんがプールの中で泳ぐのをぼーっと眺めていました。出てきた娘は手足を動かして泳いています。へぇ、泳いでる…、あ、このコードみたいなのがへその緒…、以外と太くて青いんだな…(10 base 5ケーブルよりも太かった)、以外と痩せてるな…、色がまだらだな…、とか、あれこれ思いながら見ていると、星野さんが抱き上げてくれました。「えっ、えっ、えっ…。」と、想像していたのとは違う産声が聞こえ、「あぁ、終わったぁー」と私は一気に気が抜けました。娘は産まれてきてすぐにおっぱいを吸いました。
 
 産後も、個室で親子同室、面会時間自由といった自由度の高い入院生活で、あぁ、お産は病気じゃないんだなぁ、とつくづく思いました。毎回、食事を部屋に持ってきて下さるのが申し訳なく思うくらい、産後の私は元気でした。体調も翌日にはかなり回復していて、ベビーもよく寝ているし、近所のコンビニまで冷たい飲み物でも買いに行こうかなーと、産院内をちょろちょろと歩いたり、早速、来てくれた親戚や、親しい友人達とおしゃべりして入院期間を楽しく快適に過ごせました。ある友人は、病院の病室とは異なるバースハウスの部屋を眺め、「友達の部屋に遊びにきているみたい。」と言っていました。ちなみに会陰は出産後も無事だったとのことでした。2日くらいは、おしっこしたい感じが全くなく、意識して時間を見計らい、トイレに行って用を足していました。3日くらいの間は、会陰がしみました。
 
 娘はベビー服(ちゃんと洋服で、欧米のベビーがよく着ているようなとても可愛いもの)を着せてもらって、私の横に眠っています。泣いたらおっぱいをふくませ、時間を見計らってオムツを換える。赤ちゃんに最低限しなければならないことはそれだけ。オムツ等のベビー用品、産後に必要な全ての用品等はバースハウスでみんな用意してあり、洗濯物もスタッフの方が片付けてくれて、キレイにたたまれて部屋まで持ってきてくれるのにはびっくり…。荷物も少なくて快適でした。夫は入院中の半分くらいの日程は、バースハウスで私と新しい家族と一緒に寝起きしていました。沐浴は、入院中に星野さんたちがするのを見せてもらい、最後の日には、夫が教わって実習していました。
 
 赤ちゃんと一緒に寝起きしはじめて2日目の夜。ふっと、この子が今、いなくなってしまったら、私はきっと、とっても悲しいだろうな、という気がして…、多分、私はその時、初めて母親になったのだろう、と思います。
 
子育てと仕事と・・・
 退院してすぐ、家族3人での生活が始まり、風邪をひいたり、入院したり、可笑しかったり、困ったり、感動したり…育児の事や体のことで心配な時は、バースハウスのスタッフが、いつも助けてくれました。いろんな事を経験して3年間、今思えば、あっという間に過ぎてしまいました。夫は娘をしごく可愛がり、私も娘のことを、最近ちょっと生意気になったな…と思いつつ、やっぱりとても可愛く思います。そう、世界中のどんな子供よりも、うちの子が一番!
 
 元いた職場は、復帰はしたものの、職場の事情が随分と変わっていて、復帰後4ヶ月で結局、退職するというオチがつきました。辞めた直後は、精神的にかなり参っていたので、少しの間だけ遊んで、でも、またすぐに仕事をはじめました。子供がいるというだけで、たとえ能力があっても、(別に私に能力があると言っているワケではないよ…(^^;))仕事がない女性は沢山いると思います。でも、あきらめてしまったらそこまでだと私は思います。専業主婦への切符には、基本的に往復切符はありません。また、日本の企業の現状として、共働き家庭への配慮は殆どといっても過言では無いほどなされていません。法制度としての産休、育児休業はあっても、現実には受け入れたくない企業が多い様です。また、子供がいて女性であるというだけで、それまで開いていた門戸が急に閉ざされてしまうことすら、現実にはあるのです。しかし一方で、子を成し、次の世代に我々の思いを伝え、育んでいくという仕事は、他のいかなる仕事よりも尊く、そして大切なことだと私は思います。
 
 私の場合は…ぼちぼちやっていくことにしています。あせっても仕方ない、産前に見たあの夢のように、少しづつでも確実に進めればそれでいい。でも、働けるうちは一生、私は自分の仕事を続けていこうと思ってます。仕事をこなしながら、子育ても家の仕事もこなすのは本当に大変なことです。今や我が家の夫は95%の家事をこなせます。子供の保育ママ宅への送りも迎えも同じです。でも、「二人で育てる」という事の意味を常によく考えていないと、どこかが少しづつおかしくなっていってしまい、生活全般が崩壊してしまいます。仕事と子育てをバランス良くこなしていくこと…私達にとって、これは、とても難しい課題ですが、私達はこれからもじっくりと向き合っていきたいと思います。のんびりと、家族みんなで、寄り道もしながら、そして、その時その時をたくさん楽しみながら…。